昭和50年06月12日  朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心は容易いものじゃが皆氏子から難しゅうする。三年五年の信心ではまだ迷い易い。十年の信心が続いたら我ながら喜んで我心を祀れ。日は年月の初めじゃによってその日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが。容易う信心をするがよいぞ。」

 昨日一昨日でしたか、そこの合楽食堂の中村さんがお届けを致しました中に、今朝方からこんなお夢を頂いたというのです。それも本当にあのうなんと言うですか、言わば本当に御神夢と云わねばおられない、何か是は御理解であるに違いないと思う様な、そのうお夢だったちゅうのです。熊谷貞代さんとそれから佐田トミエさんにね、誰かがそれこそ恭しゅう何かを下げておられる。差し上げておられる。それが熊谷貞代さんのが蚊帳を一吊り下げておられる。
 佐田トミエさんの方には布団を下げておられる、と云うお知らせだったと云うのです。私達が愈々信心を目指さなければならない、又そういうおかげを受けなければならないと云う事なんです。例えば蚊帳と云うのは、蚊帳を引いて寝めばそれこそ、煩わしい事も何んにもない安眠が出来る。蚊帳を引かんなりに例えば夏の夜に休んだら、もうそれこそ蚊がブンブン云うて休まれない様にです、兎に角煩わしい物のない生活に入って行かねばならんと云う事です。
 困ったと云う事のない生活です。難儀と云う事のない生活ですね。天地の親神様の言うならば御神愛の中にある、実を云うたらお互いが大きなそういう蚊帳の中に入っているんです。けれどもお互いの心が破れとりますから、そっから蚊が侵入する。そこから煩わしい問題ばっかりである。所謂この世は苦の世苦の世界と云う事になるのです。天地の親神様の御守護の中にあるんだ、懐の中に有るんだと云う事が解っての信心になってこそ、始めて蚊帳を引いて休んでおると云う事になるのじゃないでしょうかね。
 煩わしいと云う事が全然無くなる。そこで一つ熊谷さんの信心振りとか、熊谷さんの信心のおかげを受け取られる状態と云う物を見たら良いです。成程熊谷さんは蚊帳を引いて休んどられるなあと思うのです。困ったとか難儀とか煩わしいと云う様な事がもうサラサラないという日々の様です。もう七十六歳でしょうか、二十五年間合楽にそれこそ毎朝毎朝ああして三里の道を遠しともせずにお参りになる。ここ二、三年間は夜の御祈念にもお参りされる。信心ちゃは難しい物じゃあると云うのじゃない。
 それこそ嬉しゅうして嬉しゅうして楽しゅうして楽しゅうしてと云う事です。私は毎朝ここでお取次をさして頂く。熊谷さんのお取次を頂くのが本当に楽しいです。毎日毎日のいろんな出来事をお届をされます。それがどう云う様な問題であってもおかげであり有難いである、けっしてなら熊谷さんの前には、困った事は無いかと云うとそうじゃないです。なら腹の立つ様な問題は起こらないかというとそうじゃないです。
 雨も降りゃやっぱり風もあるのですけれども、その事自体を有難く受けられる信心心境と云う物が開けておられると云う事です、だからそれはなら甲の人には大変煩わしい問題、甲の人には大変悲しい問題苦しい問題、腹の立つ問題所がなろその熊谷さんの場合にはその全てが、有難いのであり全然問題が問題にならないのである。まぁ私くしは有難いと思います事は、合楽に御神縁を頂いて居られる方達の中には、銘々そう言う信心が段々育って行っとられると云う事が素晴らしいと思います。ね。
 唯日々の御教えそしてその御教えを、日常生活の上に現して行く、行じて行くという生き方から、是は見易う誰っでも解る様に誰でも行ずれば難しい事ではない教えを頂いて居るからだと私は思います。けれどもそれを聞いとるだけ、先生はあげん言いなさるばってんと言うてから、ばってんを付けてそれを行じなかったらやっぱり信心は難しい物になりましょうね。もう教えを中心にした生き方をしなければ世の中は渡るのに難しいです。自分の我の力で行きよるならもう腹の立つん事ばっかりです。
 又不安になる事ばっかりです。どんなに心配苦労を持っとる人でも、取り越し苦労の強い人でも、一度信心を頂いて御教えを本気で行じさせて頂く、生活に入らせて頂いたらです誰しもが心が安らいで来る心が歓びに満ちて来る。そして問題が問題でなくなって来る。煩わしいと言った様な問題はだからサラサラないと云う事になる。万事万端の上に御都合御繰合わせが頂けれる。同時に例えば所謂人間の幸せの条件が足ろうて来ると、いうおかげの世界も又開けて来るのですお互いどうでも一つおかげを頂くごつ。
 中村さんに申しました。中村さんがまあ幾つでしょうかね四十幾つでしょうか。位ですかねどうでもね、その佐田さんとか熊谷さん辺りの様な、お婆ちゃんに育って行かねばいけないねと云う事。なら佐田さんにした所が、熊谷さんにしても、信心の無い以前のもし佐田さんであったり、熊谷さんであったりしたら、随分やっぱしやかましい婆ばさんになっとんなさっとるじゃろうと思いますね。もし信心が無かったらそんな感じです。熊谷さんにしても佐田さんにしても。
 けれどもそれが信心に依って、何十年間洗練されて来られた所に、現在の佐田さんの信心があり、熊谷さんの信心があるのです。問題が問題に全然なってないもん。私は信心は容易いものじゃがと云うのはそう云う事だと思うんです。佐田さん信心は難しいですの、あんたのごと七十幾つにもなってから、毎朝毎朝参らんならんとても私どんじゃ出来んと、まあ信心の無い人は言うでしょう。
 そういう人達に信心の無い人達に対して難しいのであって、信心が解って教えを頂いて、その教えを日に日にの例えば生活の上に現して行こうと言う生き方にならして頂いたら、もう信心なしには生きられない。信心は楽しゅうて楽しゅうてと云うも物になって来るのです。氏子から難しゅうするとこう云うて居られるのは、信心をせんなりに只難しいとか思うておるだけです。又おかげを頂かんならんから、と云うだけで参って来るなら矢張り難しいかも知れません。
 おかげを頂いたらもう参らんで済む。まあおかげを頂かんならんけん、一生懸命お参りよると云う事になるのです。それは矢張り難しい。問題は矢張り信心を頂きに参らにゃいけません。ここには信心の稽古をしに来る所です。一遍参りゃ二遍でも参ろう事なって来るです。私しは思うのに成程信心は容易いものじゃがと仰る教祖様自身が、私は信心は容易いものに言わば有難い楽しいと云う事をです、此処ではそう云う風に表現して居られるのだと、信心は容易いものじゃがと信心を難しゅうする。
 氏子から難しゅうすると云うのは信心をした事の無い人、例えばお参りをして来て居っても信心になっていない。只お願いにだけ参って来る、そういう人は信心は難しいのです。氏子から難しゅうしておる。三年五年の信心ではまだ迷い易い。十年の信心が続いたら、我ながら喜んで我が心を祀れと。だから三年五年と云う間はまだ難しいかも知れません。けれども段々今申します様に、信心が有難うなって来る世界に入って参りますと、それこそ我ながら我が心が拝みたい様にある。
 それこそ十年そう言う信心が続いたら我ながら我心を祀れとまで言われる。この我心が祀れれる様な信心が、私くしは信心は愈々容易いものだと云う事になって来るのです。佐田のお婆ちゃんはお布団を頂いておられる、皆さんもご承知の通り一家を挙げて毎朝毎朝朝の御祈念、息子も嫁御ももう孫達の一人一人が信心を頂いておりますから、もうそれこそ真から心からお婆ちゃんの周囲にはもうお婆ちゃん、お婆ちゃん信心で皆ぃんなが温かい物を持ち寄って、その温かい物の中に住んで居られると云うのが、佐田のお婆ちゃんじゃなかろうかと思うです。
 云うならば暖かい布団に、何時も包って居られる様な感じです。お互い歳を取らせて頂いたら周囲の皆から温かい思いが寄って来る様な、一つおかげを頂きたいですね。是はもう私共のね、一生の願いでなからなけりゃいけんです。為には自分一人ではいけません。自分の周囲も皆んな信心になって行かねばいけません。自分の周囲の人達が全部信心で、お婆ちゃんお婆ちゃん、御爺ちゃん御爺ちゃん、と云うてその年寄りを大事にして呉れる。言うならその暖かい布団の中に寝れれる、そういう中に住んでおられてこそ、私は極楽と云うのじゃなかろうかと思うです。
 はぁもう家の嫁御が根性ばっかり悪うして、家の息子がいっちょん言うこたぁ聞かん。そういう中に例えばね、ほんな孫達は年寄りでん何でん馬鹿にしてからと例えば云う様な年寄りがありましょうが。もう愈々こりゃ地獄に住んどるとですよ。ね。私共の願いの言うならば、そういうおかげの頂けれる信心を頂きたいと云う願いを立てなければいけない。同時に煩わしいと云う問題が無くなってしまう。煩わしい事が無い。困ったと云う事が無い。不自由すると云う事がない。
 足ろうたおかげが頂かせて頂けれる信心を、愈々身に付けて行かねばならない。中村さんに私が申しました様に、中村さんあんた達はそういう良い言わば、先輩を持っておるから、佐田さんやら熊谷さん方の様な信心を目指して、一生懸命信心の稽古をさせて貰わねばいけないねと、まあ云うてまあ話した事で御座います。その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうがと。是は何かその日その日と云うとまあその日暮しと、云った様な感じがするのですけどそうじゃないです。
 その日その日のおかげを受けて行けばと云う事は、もう足ろうたおかげと云う事です。あれが無い是が困ると云う事ではない。ですから取り越し苦労はないと云う事なんです。一つ蚊帳と布団を頂ける様な信心をさして頂きたい。煩わしい事の無い世界、しかもその周囲には暖かい心ばかりの中に住めれる世界、そう云うおかげをです合楽の人達、合楽で信心の稽古をして居る人達なればです。
 誰は受けられて誰は受けられんと云う事は決してないです。もう全部が頂けれるです。合楽の皆さんの場合は、成程先生が言う通りに私達もそういうおかげが頂けるだろうと、日々の体験から思われる方も沢山ありましょう、けれども矢張り信心ちゃとても難しいもんばのと、例えば信心しよってから難しいもんばのと思うごたる言うたりする位ならば、あなたは信心の稽古をしとらんと言わなければでけません。
 只参りよんなさるだけ、拝みよんなさるだけ、信心を頂きよらんと云わなきゃならんです。だからそういう人達も一つひっくるめてどうでも信心を頂かせて貰う。信心が容易い物、信心が楽しい物。そげん合楽に毎日参らんならんの、参らにゃおられんのであると云う信心。ほらまあ七十幾つにもなってもうやんがて八十にもなりよってからそげん朝晩参らんならんごたるなら、私どんじゃでけんと。
 それは信心のない者が云う事であって、当の本人はもう有難うして有難うして、しかも七十歳になってその健康の体を頂いとる事だけでも有難い。お参りが楽しゅうして有難うして、応えんと云うごたる信心になる時愈々信心は容易いものだと云う事が言えるのです。合楽ではそういう意味での言うならば先輩がいくらも居られます。ですからそういう信心を愈々見習い、神習わせて頂かねばならんと思うね。
   どうぞ。